京都北山を中心とした山々を楽しむ okaokaclub

山紀行番外編
思いがけずの旅。熊本、島原、山都町
2023.01.13~01.15

霧が晴れ普賢岳が見送る


日程:
・2023年1月13日(金)~15日(日) Ikomochi




 思いがけずの旅。熊本、島原、山都町へ行ってきました。

 予定していた熊本市での研修会がコロナ爆発増加で延期になった。事前に予約していた旅行パックのキャンセルもなんだかなあ と、急遽、熊本方面の仕事の打合せに行くことになった。

 14日15日は未定のまま満席の飛行機へ。13日打合せも無事済み、夜は会食の予定が参加者がコロナ濃厚接触者になりキャンセル。オミクロン株が猛威を振るっている。

 14日も訪問先に連絡するもみなさんコロナが、、、と会えず。雲仙島原の仕事先から唯一 来ていいですよ と快く返事をもらい急遽訪問となった。

空から熊本城を望む 空港でくまモンバス

熊本名物からし蓮根 大好き 港にもくまモン

 熊本港から高速フェリーで島原まで30分の道のり。有料道路を使って行くと、3時間半。高速じゃない普通のフェリーでも60分。フェリーが断然速い。有明海は海の交通路です。

 さて、港へ行くとななんと霧が濃くて2つのフェリー会社とも運休、いつ出発できるかは風の吹き次第という。様子を聞いても、島原が晴れてくれたらいいのだけれど、とほんまに船は風まかせ状態。

 時間はあるので、1時間半後の次の便まで待っててみようかと港でうろうろしていたら、出航予定時刻10分前にいきなり出航しますとアナウンスがあり、港で待っていた車や人がわらわらと乗り込んだ。濃い霧の中、視界が悪いけれど船は順調に進行する。

高速船で島原まで30分

 出航と同時に上甲板へ上ってみたら、カモメが1羽2羽と周囲を飛び回り、気づけばとんでもない大群に取り囲まれていた。風に乗って船と一緒に進む群れ。すごいなあ と感激して目の前を飛翔するカモメを激写。

 ところが、なんのことはない そのからくりに気づくことになった。船の売店でかっぱえびせんが100円で売っていて、乗客は甲板からカモメに食べさせる。えびせんを持つ指先からカモメは上手にかっさらっていく。空中に放り投げても上手にキャッチ。奈良公園の鹿とせんべいおばさんとの癒着関係と同じだった。

カモメの大群が出迎えてくれる フェリーの屋根でも待っててくれる

これが目当てと分かった カモメと結託して販売

 カモメと戯れているうちに、対岸の島原半島の霧が流れて雲仙岳も姿を現した。今日の霧は珍しく濃かったと、島原で聞いた。訪問も無事済ませ、フェリーの待ち時間に島原城、武家屋敷群を見に行った。雲仙の豊かな湧水を武家屋敷街に流し、上水路として使ったという水路はいまも清んだ水が流れていた。

島原案内図 火砕流の跡が今も

島原 武家屋敷群 武家屋敷

 翌15日は、いつかは行ってみたかった通潤橋に向かう。熊本市内から車で2時間。道中は熊本地震で地滑りや崩落の被害が大きかった益城町や御船町を抜けていく。道路は新しくきれいに復旧していた。昔ながらの立派な瓦葺の家も点在するものの、新築の家々や新しい団地が多く心が痛んだ。

山都町へ

石橋案内

 緑川沿いの昔からの街道筋という道をくねくね行くと、立派な石造りの橋があった。肥後には優秀な石工集団が代々いて、石造りの眼鏡橋をたくさん造っていたのは知っていたが、御船町一帯にも残されていた。

御船町眼鏡橋

 江戸時代末期、薩摩藩が肥後の石工を招聘して造った立派なアーチ式の石橋群は、橋げたのある1つの石を取れば全部崩れるが、地震でもなんでもびくともしない高度な技術の橋と言われてきた。軍事目的もあり、造った石工三五郎は重要機密保持のため刺客に襲われもした(生き延びた)。

 1993年の鹿児島8・6大水害で流木のため上流域の石橋が崩落し、被害を大きくしたという大声に押されて、甲突川の5橋は撤去、新築となった。撤去後は橋公園に復元されているが、水のない地面に置かれているだけの橋は悲しい。

 鹿児島市民の日常道路としてみなに愛されていただけに、修復保存して元通りしておけば、観光の目玉にもなったものを。(流木の被害は上流域の遊水地を乱開発したためで、人為的な理由が大きいと思う)。御船町周辺にはたくさんの眼鏡橋が歴史保存物としていまも日常生活に生かされている。

 石造りのアーチ橋から豪快に水が噴き出る写真を見て、一度通潤橋に行ってみたかった。水路の葉など詰まりを掃除するため毎日水を抜いて放水するというが、生憎冬場のため放水はなかった。それでも、日本一大きく、美しく弧を描く石造りの橋は立派だった。

通潤橋へ行った 通潤橋上部

通潤用水(世界かんがい施設遺産)説明

用水路

用水路から橋への取水口

 そしてとても驚いたことには、橋は単なる水路ではなく、一帯の灌漑用水路の施設だという事実。九州背骨の背梁山地に迫る丘陵地での田畑は段々畑で、こどもたちの仕事は日がな一日川から上の田まで桶で水を担ぎ上げるという過酷な労働、それを嘆いた庄屋が隣の山地の川から水を引いてくるという案を3年がかりで完成させた。江戸時代1854年のこと、総工事費用はいまで37億円。通潤橋は川から高台へとサイホンの原理を使って汲み上げるという壮大な事業。世界灌漑施設遺産に指定されている。

 https://tsujunbridge.jp/

 現代でもなかなか出来ないことだねーと感心することしきりだった。通潤橋のある山都町は熊本の山奥にあるのに、文楽があったり、大造り物という巨大な山車の盛大な祭りがあったりと、なぜか文化的にも町の風情も豊かそう。

白糸台地案内図

一帯に広がる棚田 遠く県境の山々を望む

 秘境感漂う北山広河原とかと全く違う。それもそのはず、川沿いをたどってきた道は日向往還といい、商人や住民が熊本と日向宮崎の延岡とを結んで物資を運ぶ古代からの道だと知った。どうりで、山都町のバス停近くには古めかしいバー街があった。大名行列が通る道は街道、通らない重要道は往還というそうだ。かの西郷隆盛も田原坂で官軍に負けこの道を通って薩摩へと敗退したそうで、いまも史跡が残っている。

 https://spice.kumanichi.com/outing/outing-feature/107187/

落差50m五郎ヶ滝 日向往還の中心地山都町

山都町大造り物 工夫凝らした大造り物

 「分け入っても分け入っても青い山」種田山頭火は、この句を五ヶ瀬か高千穂で読んだという。彼もこの熊本の山奥への道をたどって峠を越えたのかもしれない。

熊本往復 満席

 雲仙普賢岳を見上げ、山奥深く道を分け入り、思いがけない発見に満ちた旅でした。










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