京都北山を中心とした山々を楽しむ okaokaclub

平安京創成館に行った
2024.12.07

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平安宮復元図

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・ 2024.12.7 (土)曇り ikomochi



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 朝晩の気温がぐんと下がり、体調もいまいち。山行きはやめて、なかなか行けなかった映画館に潜り込み堪能した後、これまた是非に確かめたい場所があり行った。それは、京都市平安京創成館。

 今年は珍しくNHK大河ドラマ「光る君へ」を通しで完走中。紫式部を描くというので源氏物語がドラマ化されるのかと面白半分で見始めたら、これが平安時代のはらはらどきどき宮廷闘争劇で面白い。大石静さん描くラブストーリーも泣ける。

 どろどろ権謀術策駆け引き裏切りそこまでやるか満載の朝鮮王朝実録史に基づいた韓国時代劇ファンとしては、日本の時代劇は切った張ったで単純すぎて魅力に欠けると昨今見限っていた大河ドラマだったのだが。(といっても最近の韓国時代劇は史実無視のフュージョンものに走り、玉石混合だ)

 毎週ドラマのタイトルバックに流れる平安京の復元模型、正面に広い朱雀大路が内裏までずーんと走り、ぐるぐるぐると京都の周囲の山並みも出てくるのだが、現在の御所と平安時代の内裏は場所が違うと分かっているものの、背景の山並みはいったいどこからどこまでなんだろーと、地図を頭に浮かべて悩んでいた。これは実物を見て確かめるしかないと、丸太町七本松にある京都市平安京創成館に行ってみた。

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平安京創成館 平安宮造酒司倉庫跡

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平安京復元模型案内

 驚きましたねえ。縦横10m×11mの巨大なジオラマがでんとあった。平安京復元模型は、平成6年、平安建都1200年記念事業の一環として制作され、 縮尺1/1000(東西4.5km、南北5.2Km)で、わが国最大級の歴史都市復元模型であり、考古学、歴史学、地理学、建築学等の研究者らによる2年5ヶ月にも及ぶ討議に基づき、その研究成果を結集して完成。平安時代の400年間を表現しているという。

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平安京復元範囲地図

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平安京朱雀大路中心部

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東側から見た平安京

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鴨川三川合流

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嵐山から見た平安京

 朱雀大路に東寺、西寺、内裏や貴族の邸宅、社寺仏閣、東の市西の市、庶民の家などがびっしりと立ち並ぶさまは圧巻だ。賀茂川や桂川、紙屋川の氾濫原もそのままに再現。ガイド役の女性が模型の説明を詳しくしてくれた。平安京は風水に基づいて場所が定められ建設されたという。北方の船岡山を玄武に、東には青龍の鴨川、西には白虎の山陰道、そして南には朱雀として巨椋池が守る最高の場所だったそうだ。

 三方から眺めすがめつ、模型を覗き込み、北山の位置を確かめた。私が気になっていたのは、鴨川の奥にある小山はどこか、内裏の北側の山並みはどこか、東側の山並みはどこかだった。鴨川の三川合流から奥は上賀茂神社の裏の丘で、神山ではなかった。内裏の北側には、船岡山が鎮座し、大文字山沢山と杉坂の手前くらいまでの山域、北西は峰山、高雄山、清滝川の流域、西は嵐山あたり、東は吉田山から清水山、阿弥陀峰、六条山のライン。

 北は半国高か桟敷くらいまであるかと思ったのだが。大文字山も範囲ではなかった。ガイドの女性と平安京を囲む山が気になってねと、桟敷ケ岳の都眺めの岩の惟高親王の話などした。

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高雄、清滝川周辺

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沢山 氷室あたり

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桂川からみた平安京

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東山七条 三十三間堂

 精巧に作られた模型を上から眺めてみたいものだと話し合った。一人の子どもが、水族館のようなガラスの水槽を作ってその上を這って見下ろしたい言ったそうだ。それはいいアイデアかも と盛り上がった。でもね、京都市は貧乏だから、これだけの模型を置く場所がなくて分割展示していたのを、このアスニーの生涯学習センター会場をつぶしてやっと広い場所を確保したんですよ。。。。もっときちんと展示場所を作って大勢に見てほしいよねえ と嘆くことだった。

 「光る君へ」が放送されて最近は大勢が見に来るけれど、以前は数人しか来館者がいない日も多くてね と。京都市は大金使って地下鉄から市役所へのビップ通路(ほとんど市民は使ってない)や蒔絵のエレベーターなんか作ったけど、お金の使い道が違うよね。当時から残っている建物は三十三間堂のみ、焼けずによく残ってくれたとガイドさん。三十三間堂 そういう目でまた拝観しよう。

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内裏周辺

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高陽院など貴族邸宅

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二条通りから京都御苑あたり

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吉田山から熊野神社周辺

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法勝寺復元

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東寺、西寺、羅生門、東西の市

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南部の鳥羽離宮も復元

 「光る君へ」の時代考証に携わった歴史学者の倉本一宏さんが、紫式部や藤原道長が生きたのは平和な平安時代で政治的にも文化的にも優れた時代だったとのお話で、以下のメッセージを発信されている。

 「私が研究しているのは古記録(こきろく)といわれる男性貴族の日記ですが、これらを読んでいると、当時の仕事がいかに大変であったかがわかります。平安時代の貴族は遊んでばかりいて、迷信深いと思われている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは文学作品に登場する男性貴族たちが遊んでいる場面が描かれているために、そう思われているのだと思います。

 紫式部が書いた『源氏物語』もよく読むと、光源氏はものすごい権力闘争をしているんです。迷信深いというのも実は間違いで、物忌(い)みや穢(けが)れを自分に都合よく使っているだけなんですね。現代よりも科学技術が劣るだけで、この時代の科学技術の範囲内では精いっぱい、冷静に、論理的に行動しています。

 また平安時代は、基本的に戦(いくさ)の恐怖がなく、普通にごはんが食べられますので、平和な時代だと思います。上は天皇から下は庶民、農民に至るまで、奈良時代よりもずっと豊かなんです。律令制が崩れて平安時代となり、これが「とんでもない時代だったので武士が打ち破りました」というような書かれ方をすることもありますが、首を討ち取って持ってくるような時代と、戦いのないのんびりとした時代とでは、どちらがステキでしょうか。私は、平和な平安時代をもっと評価してもらいたいと思っています。」

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貴族の食卓

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庶民の食事

 次回は、双眼鏡とカメラを持って復元模型を楽しみに行きたい。https://heiankyosouseikan.asny.ne.jp/ 機会を作ってぜひ巨大ジオラマをご覧になってください。お薦めです。


 時代考証 倉本一宏さん ~紫式部や藤原道長が生きたのは平和な平安時代

 公開:2024年1月7日(日)午後0:00

 更新:2024年10月3日(木)午後5:33

NHK
「光る君へ」で描かれるのは平安時代中期。平安絵巻には優雅に暮らす貴族の様子などが描かれていますが、平安時代とはどのような時代だったのでしょうか。また、紫式部や藤原道長はどのような人物であったのか。時代考証の倉本一宏さんに伺いました。

――「光る君へ」では平安時代中期が舞台となりますが、この時代はどのような時代だとお考えでしょうか。



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